浜田の祖先、明治座のルーツを開く

藤ヶ谷の香取神社には、浜田の祖先・鈴木吉兵衛が奉納した灯篭があります。
喜昇座座主・鈴木吉兵衛
浜田の祖先、明治座のルーツを開く

 千葉県柏市藤ヶ谷の国道16号沿いに香取神社が祀られておりますが、境内に、安山岩で西の屋変形、高さ3メートル余りの一対の灯篭が奉納されています。
この灯篭の台石には、

 

當村
濱田源右ェ門産
東京府久松町
喜昇座
願主 鈴木吉兵衛
當村
同 濱田源右ェ門

更に当時の香取神社の世話人名、

當村
濱田七郎兵衛 川上治良右ェ門 相馬菊次郎
内藤彦左衛門 相馬胤永 深野忠蔵
濱田兵左ェ門 濱田周蔵
富塚村
川上七左ェ門

と刻まれています。

濱田源右ェ門の名は、私の家の歴代が継承していたものであります。鈴木吉兵衛はおそらく養子にいって姓が変わったと思われます。

喜昇座。役者の看板が掲げられ、船着き場や人力車、人の姿が写っている。
喜昇座(明治6年4月)

『明治座物語』(木村錦花著 昭和3年3月1日発行)には、明治座の前進である喜昇座時代が記されています。

 幕末の昔、昔といっても明治維新のちょっと前のことで、両国の橋の東西は、江戸随一の楽天地に成っていました。寄席、見世物、揚弓店、一銭床、水茶屋などが軒を並べて繁盛していた中に芝居が三軒ありました。芝居というと大層立派に聞こえますが、是はほんの、軽業や曲独楽の高小屋同然な菰張りで到底、猿若町の芝居とは比べ物にならないようないたって貧弱なものでした。

 芝居ばかりでなく飲食店でも商店でも、その当時の両国は皆、板屋根粗普請の家櫛比していたので、何故そうしなければならなかったかというと、その頃は、「川御成」といって、将軍家が折々船で大川へ遊びにお出ましになる。その時に「お目障り」とあって、これらの建物が悉く取り払いを命ぜられますから、いざとなれば、一夜中に引き払って空き地にする事ができるように、何れも架設家屋で今のバラックより酷いような普請でした。

 その上、この場所へは人の居住を許されず、もし居住するとなれば、表面は水人足という書き上げで不時出水の場合には両国橋を落とさぬよう保護する役柄になっていました。 そのような状況でしたから、芝居は無論小屋掛けで、舞台も桟敷も至ってお粗末な見るかげも無い有様でした。当時の人はこれを称して「晴天小屋」「おで々こ芝居」又は「百日芝居」といっていました。晴天小屋というのは、竹囲いむしろ張りでしたから雨天には芝居を休む、天気の時ばかり開演するからという意味で、「おで々こ芝居」とは、大小道具は勿論、衣装調度も猿若町に遠慮して本式物を用いず一切が簡略粗末であるが為の名称で、百日芝居のとは、宮芝居が百日に限って興行を許されたという、昔からの習慣によっての名でした。

 その三軒の芝居というのは、東両国にあった「大辰の芝居」と広小路(西両国)にあった「村右ェ門の芝居」、「三人兄弟の芝居」を指して言ったので、この時代には、芝居に座名などは無かったのです。この頃、猿若町の芝居は、中流以上の観客を惹き、両国は、その付近の民衆によって勢力を占めていたので、その時代がそうであったから仕方がありませんが、猿若町の方では、これを芝居と見なさず、仲間扱いしてはくれませんでした。然し両国の方では、これを恨むでもなく、別に不平煩悶も抱かずに、至極暢気に興行を続けていたようです。

 その後、維新の大変革があって世間は不景気となり、芝居は勿論不入り続きに、止む無く休座して、時節を待つより仕方ないといって町内こぞって大戸を下ろしてしまったので、さしも栄えた猿若町も一時火の消えたようになりました。然し何時までも休んでいるわけにもいかないと見え、観客の頭を勘定するような心細い興行を続けていました。その後、景気も回復し昔に変わらぬ繁盛を挽回することができました。

 明治五年に、新時代の制度として都下十箇所の劇場設置を許され、転座するも差し支えなしとの旨が東京府令として発表されました。さあこうなると、場末の足場の悪いところに小さくなって引っ込んでいる必要はありませんから両国の小屋主たちも金主(現在でいう株主)を見つけて、それぞれ東京府庁へ出願し転地新築の認可を得てしまいました。

 「三人兄弟の芝居」の芝居は座名を喜昇座と称し、丸の中に喜の字の櫓紋を用い久松町の川岸に新築されました。これが後に「久松座」「千歳座」「明治座」となりました。即ち今の「明治座」の前進であります。

 両国の三人兄弟の座主となった鈴木吉兵衛が見つけた興行の地は、久松河岸に面した小笠原左衛門の本邸跡でありました。そこへ新劇場を建てようとすると、そこは既に堀田家の所有地になっていて、いろいろ面倒が起こり、急に埒があかぬところから、鈴木吉兵衛は一策を案じ、堀田家の家来高浜敷勳と、出入りの材木商高木秀吉の両人を味方にいれ、出願に及び、やっと許可を得て新築にかかり明治六年四月開場式を挙げることとなりました。

 喜昇座の名前は上記のとおり変わりましたが、震災前までは同じ場所に開かれていました。ここの地主は下総の堀田家で昔堀田の屋敷がここにあったと言い伝えられ、この座では決して「佐倉宗五郎の狂言」も「三日月次郎吉の狂言」も上演しませんでした。これは堀田家がこの狂言に関係あるから、そのため遠慮したと記されております。

 喜昇座の座主は鈴木吉兵衛、高木秀吉の両人で、頭取は大和屋坂蔵、番付版元は湯島一丁目の斎藤長八(鳥居清忠の養父)、振り付けは西川巳之蔵、立作者は音羽新造、座頭が坂東鶴蔵で、他には坂東三八、坂東家太郎、中村十蔵という腕達者と、大黒屋昇若(後の坂東三津太郎)という立女形がいました。

 以上、現在残されている書物により記させて頂きました。更に当家には鈴木吉兵衛自筆の書面が保存されているのが発見されております。

 濱田家の祖先に医者をしていたものがおり、堀田家に仕えていたとも言い伝えられており、現在もその処方器具等が残されております。現在まで鈴木吉兵衛の出身も明かでは無かった訳ですが、喜昇座で佐倉宗五郎の狂言等を上演しなかったことは、以上の理由もあったと思われます。鈴木吉兵衛が下総国の出身であったことなども想像されます。

 祖父から、『香取神社にある灯篭は、昔、祖先が江戸へでる時に願かけをして旅立ち、芝居小屋を開いて成功し、故郷へ錦を飾り、御礼参りと、更なる願かけをして建立したものだ』と聞いておりましたが、当時の庶民に娯楽の場を提供した明治座の前進とは光栄なことであります。

関連リンク

明治座 - 沿革

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